心理学には「自己内観における錯覚」という言葉がある。
これは、自分の思考を省みるだけで、自分が実は何に向いているのかや、何に最も幸せを感じるのか、また自分の人生の目標や人生の意義までも徹底的に究明できるという「思い込み」を表す言葉だ。
しかし、自分の思考を探ってみても最後にたどり着くのは、おそらく、気分の波と、とりとめのない感情と、曖昧な思考だらけの混沌とした泥沼だけだ。だから、あなたが次に重要な決断を迫られたときには、そのことについて入念に検討はしてみても、考えるのは「思考の飽和点」までにしておこう。
思考の飽和点
頭の中で検討を重ねることに、意味がないわけではない。短期間でも集中して考えれば、とてつもなく大きな気づきがある。しかし、時間とともに新たに得られる認識はどんどん小さくなり、すぐに思考は飽和点に達してしまう。
頭の中で熟考しても、懐中電灯で照らす程度の範囲にしか考えは及ばないが、行動を起こせば、サーチライトであたりを照らし出したかのように、一気にいろいろなものが見えてくるようになる。
考えるより、行動しよう
つまり、「考える」だけではだめで「行動」しなければならない。親は子育ての指南書を読むことによってではなく、日々自分の子どもを育てながら、教育者としての能力を育んでいく。
それはどうしてか。なぜなら、世界は不透明だから。先行きを完全に予測できる人はいない。最高の教養を身につけている人でも、先が読めるのは、特定方向の数メートル先までだ。予測できる境界線の先を見たければ、その場にとどまるのではなく、むしろ前に進まなくてはならない。
言うは易く行うは難し
考えるだけで先に進めないことはよくある。「思考の飽和点」をとっくに過ぎていても、つい考えすぎてしまう。なぜか。それは、考えるほうが簡単だからだ。
考えているだけなら失敗するリスクはゼロだが、行動すれば失敗のリスクは確実にゼロより高くなる。ただ、考えたり、他人の行動にコメントしたりするだけの人が多いのはそのためだ。考えているだけの人は現実とかかわらない。そのため、挫折する心配は一切ない。一方、行動する人は挫折のリスクと無縁ではないが、その代わり経験を積むことができる。
人生において自分が何を求めているかを知るには、何かを始めてみるのが一番だ。考えているだけでは、よい人生は手に入らないということを常に頭に入れておくようにしよう。
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